漆喰塗り

漆喰塗り 
わが生家、誰も住まなくなって8年ほどになるが、伊賀市喰代(ほうじろ)の山すそに、今も変わらずにある。法事には親族の集まりもあり、長男の役割と思ってその管理維持に努めているがなかなか大変。
先日もリビングの天井に穴が空いた。アライグマが天井裏に居座り、穴を開けたようである。天井張替えと、この際、壁紙も新しくすることとした。小さな仕事依頼で気が引けたが、隣村の大工さんが引き受けてくれた。
裏の蔵の正面の漆喰壁も剥がれ落ちている。
見た目も悪く、なんとかしなくてはならないが、誰も住んでおらず、今後この屋敷もどうなるかわからない。左官屋さんにお願いすれば大事だし、日曜大工のごとく、自分で塗りなおすことに決めた。漆喰を平らに塗ることは、職人技を要する難しいこことであるが、多少のでこぼこも一種の文様ともなるし、味わいともなるかもしれない。入り口正面は土間のままで、でこぼこ状態なので、コンクリートを打つこととした。これらは、体験・実習であり、失敗したとこで、特に問題となることはない。すこし見栄えがよくなればそれで良い。
ホームセンターで、あれこれ思案しながら資材を買い付ける。セメントも漆喰も色々ある。セメントは、砂利も砂も配合済みのものとした。漆喰は、練りあがっていてそのまま塗れるのもあり、以前小屋の外壁に使用したことがある。今回は、水を加えて練り上げて使用するインスタント漆喰にした。さらに、砂利と、土間中央に敷く3センチ厚の御影石3個も買って、乗用車のトランクに積み込み、分けて運んだ。

まずは、正面入口部分のコンクリート打ちだ。これまで身近で見てきた経験を頼りに行うつもりだが、You tubeで関連映像を見て事前の参考とした。コンクリートを流し込む枠を板で囲い、さらに板で3分割とした。水準器で水平を確認し木枠を固定した。インスタントコンクリートに水を加えてこねた後、敷き詰めた砂利の上に流し込むのだが、慣れぬ一人作業で、無理をしてならぬと一枠ずつ日を変えて作業をした。そのため表面の仕上がりは日により異なったものとなってしまった。まあ仕方ない。
一週間がたち、コンクリートも固まった。次は入り口左右の内壁部分の腰板張りだ。電機カンナや丸鋸、インパクトドライバーなどは一通り揃えてあり、蓄えてあったスギ板を用いてうまく張ることができた。防腐塗料を塗れば、よき出来栄えとなった。
次は漆喰塗り。漆喰には特別な感情がある。小さい時から、少し坂をのぼって我が家に近づくと、屋敷東南角の石垣に立つ蔵が目に入り、その漆喰壁を見るとああ帰ってきたと安心した。夕日に映える漆喰の白は、なんとも美しい。経年変化は有るのだろうけれど、それは気付かぬ、変わらぬ白さであった。

漆喰は、水酸化カルシウム(消石灰)を主成分とし、麻糸などの繊維質、フノリ・ツノマタなど膠着剤を加えて水で練った建材で、耐火性や調湿性があり、古くから城郭や寺社、土蔵などに用いられてきた。
なお、「漆喰」という漢字であるが、ずっと違和感を持っていた。「漆」「喰う」という字と白壁がつながらない。そして最近やっと知ったのだが、「石灰」の唐音が「しっくい」であり、「漆喰」との字が当てられ、その当て字が定着したとの事である。
漆喰塗りには、まず下地を整えておく必要がある。剥がれた古い漆喰を取り除き、ひび割れた壁の部分は塞ぎ、表面の凹凸をなくし平滑にする。これらを時間の都合を付けては、無理せず少しずつ進めた。
そして労力を要する漆喰を練る作業。一人での手作業であるため、一袋4㎏ずつの作業とした。水9Lを加えて鍬で一気に混ぜあわせる。5分ほどすれば、漆喰らしく練上がる。久々の重労働で、ホームセンターで見た電動攪拌機があればと思った。
いよいよ、漆喰塗りだが、作業中どうしてもこぼす。養生シートをきっちり敷いておくことが大切だ。ペンキ塗りの時など、このくらいなら養生せずとも大丈夫だろうと注意して作業するのだが、結局垂らして汚す事がこれまで何度もあった。
漆喰塗り、やはりと言おうか、平らに塗ることは至難の技だ。コテの跡が残るし凸凹となる。それでも作業を進めているうちに多少のコツもわかってくる。
こうした作業は楽しくも有るのだが、不意に、この屋敷や建物はどうなってしまうのかと、不安な思いに襲われる。息子は、ここでは育っておらず馴染みもない。私の亡き後は、朽ち果てて、いずれ草木覆う屋敷跡となるのであろうか。

喰代地区にも、それと解る屋敷跡が幾つもある。伊賀国上野城代の家老藤堂高文が編集した宗国史には、宝暦年間(1751~1764)の喰代地区は、戸数99戸、人口440人、税746石7斗1升7合とある。今は、戸数55戸、人口168人と減少し、しかも高齢者のみの世帯が多く、今後数十年で戸数はさらに激減する。
地区のほぼ中央に、道路側に石垣だけが残る大きな屋敷跡が有る。「池田の屋敷」と呼ばれていた。その名前が残っているだけで、池田家のその後の話を聞くことはなかった。

私は、学部学生の時、一身田の門前街の古い旅館の2階のひと間に下宿していた。床の間もあり、古い日本画が掛けられていた。これは伊賀出身の池田雲樵の作品であると家主が教てくれた。伊賀出身、なんという偶然。
そして、池田雲樵(1825-1886)について調べて見ると、またもびっくり。「池田政直を父に文政4年伊賀山田郡喰代村に生まれる。」と書かれている。あの池田の屋敷の人だ。喰代の先輩にこんな日本画家がおり、その作品に下宿の部屋で対面できたことに驚いた。雲樵は、幼い頃から画を好み、内海雲石、前田暢堂、中西耕石に画を学んだ。そして画をもって藤堂家に仕えた。また、昌平黌で古賀精里(せいり)に学んだ津藩士の斎藤拙堂について詩文を修めた。明治維新後は京都に移り、明治12年に京都府立四宗画学校が設立されると南宗画の教授となり、全国絵画共進会などの展覧会でもたびたび受賞した。明治19年、62歳で死去。なお、池田雲樵は詩文を学んだ儒者、斉藤拙堂の肖像画を描いているし、さらに拙堂の娘を妻に迎えている。

小児科入局2年目の尾鷲赴任に伴い、下宿を離れたが、今はその建物もなく、掛け軸のその後もわからない。
この文章を書いているとき、池田雲樵の掛け軸をネットオークションで見つけた。190 年前にこの喰代で生まれた画家の掛け軸が、築100年の我が生家の今ここに掛かっていることの意味もある、などと思って落札した。出品者は松阪の方であった。

二ヶ月ほどかかったが、漆喰塗りは完了した。苦労と疲労の後の心地よい達成感、何十年ぶりであろうか。出来上がった白壁を眺めていると、映える漆喰壁を背に吊るし柿が並ぶ情景や、漆喰壁の前の大きな蜂の巣の光景などが蘇る。それらは私の記憶遺産。

三重県小児科医会報 第100号
(平成28年8月22日)