フキ俵や菖蒲飾りのこと
田植時期はずいぶん早くなった。五月の連休も過ぎれば、田園の風景も数日の内に一変している。農機具のたまものである。
田植と言えば、フキ俵を思い出す。大豆をいり、皮をはずして米に混ぜ、ご飯を炊く。その豆ご飯を長い茎の付いたフキの葉に包み、茎の皮すじでくくったものである。
フキ俵は、初田植(サビラキ)のお供え物。初田植の曰、苗代の角に苗を十二株、うるう年には十一株を植え、フキ俵を二個供え、その両側に栗の花枝・ススキ・イバラの枝をさして祭った。フキ俵はたくさん作り神仏にも供え、家族でも食べた。いり豆の香ばしさとフキの葉の香りが混じりおいしかったが、もう三十年も食していない。
五月五曰の節句には、こいのぼりが風になびき、てつぺんの飾りも音をたてて回っていたが、それよりも印象深いのが軒先の屋根から長くのびた三つの菖蒲とよもぎの飾りである。またその曰は菖蒲を束にして風呂に入れ、菖蒲湯とした。薬草のような特別なにおいがしたが、いやなものではなかった。
民俗学書には、菖蒲は身を清め邪気を払う力があると信じられており、軒に菖蒲とよもぎを挿して 女が聖なる田植の早乙女の資格を得るために忌み籠もり、菖蒲湯に入って邪気を払った、との記述がある。そんな意味があったのである。
もう一つ、五月で思い出すのが,高く竹竿の先にくくりつけられた山ツッジとシャクゲの花束。庭の端に立てられ、天道花(てんどうばな)と呼ばれていた。花は五月五日に山に取りに行き、七日の万方に竿を立て、 八日の朝に拝んで日没と同時におろした。月や星に供え お天道様の恵みに感謝するのだと聞いている。
またこの五月八日は、お月八日と呼んでいたが、旧暦の卯(う)月八日の転化したもので 山の神をツッジや藤の花を依り代として迎え、田の神として奉祭する特別な日であったとも言われている。
地区の田植えが終われば、「サナブリ」といって、村の休み曰があった。「サー」は稲の意味で、「ナブリ」は登りで、田の神が登っていく曰であった。農機具を洗い清め、無事の植付け終了を感謝した。
私が保育園の頃は、まだ牛で耕し、手で植え、手で刈り、乾燥も天日での手仕事であった。その後それらも次々に機械化され、農作業と関わる風習もすたれていった。私はその機械化の変遷に立ち会い、消えゆく風習を経験した最後の世代といえる。
我々の子供の頃はまだ生活の中に、さまざまな神々との交流があった。現在の物質的に豊かで便利な生活の中では、神々との関わりは実に乏しい。今の若者がカルト宗教にいとも簡単に傾倒し、ノストラダムスの予言などを本気で信じる事と、何か関係していると思えてならない。
先曰、実家の作業場に入ったが、季節の見なれた農機具はなく、ガランとし、コンクリート土間の上には虚の空間。永く続いた家業の終わりとは、かくなるものかと立ちすくむ。
今年から両親は米作りをやめた。継ぐべき者が継がず、ここに立ち見届けるのは、責任を感じるつらさがある。ただ、代わって作ってくれる人がおり、植付けされた田を見て通れるのは救いである。荒れた田畑は見るに忍びない。
平成11年5月