旧上野市庁舎と坂倉準三     =保育園健診の途中に=

3月3日の今日は、三田保育園の入園前健診があり、新人の診療助手が同行してくれる。往診車はなく、どこへ行くのもこの10年9万キロのE350 クーペで、そそくさと乗り込んだ。

三田保育園は当院から北に5キロ程の所に位置し、ちょうどその中間に伊賀上野城がある。お城の前の昔「大名小路」と呼ばれた道を通ります。その通りに面して芭蕉生家、旧上野市庁舎、西小学校、上野高校、崇広堂、崇広中学校と並んでいます。毎日自転車で上野高校へと通っていた道で懐かしい。

 

芭蕉の故郷塚があり松尾家の菩提寺でもある愛染院の前を通り、すぐ左折してその大通りに入る。西に進むと、まず、赤坂町の芭蕉生家の前に来る。長らく耐震改修工事の建屋カバーに覆われていたが、今日それは取り払われている。生家に接した歩道脇には芭蕉直筆の句碑「古里や臍のをに泣としのくれ」があります。高校生の時、初めて拓本を採らせてもらった思い出の句碑です。次いで丸の内となり、伊賀上野城のふもとの旧上野市庁舎の前に来る。城山勾配を利用した低層2階(中2階を含む)のコンクリート打ち放しの庁舎で、平成31年1月の新庁舎移転後は、経年の汚れのままに息を止めたようにそこに在ります。(写真1)

 

旧上野市庁舎は昭和39年に完成し、総工費19350万円。設計は坂倉準三建築研究所で、錢高組が施工した。当時の豊岡益人市長は、一高・大学の3年先輩であった坂倉準三が設計した羽島市庁舎の景観一体美を高く評価し、上野市での公共施設の設計を依頼したとの事です。

坂倉準三設計の上野市での公共建築物は、旧上野市中央公民館(S35年)から始まり、西小学校(S37年)、崇広中学校(S 38年)、上野公園レストハウス(S38 年)、三重県上野庁舎(S39 年)、上野市庁舎(S39年)、西小学校体育館(S41 年)と続き、城山の南麓に建築群を成していました。老朽化に伴い、西小学校、崇広中学校、三重県上野庁舎、旧上野市中央公民館は解体され、現存するのは旧上野市庁舎(写真1)、西小学校体育館(写真2)、上野公園レストハウス(写真3)のみです。

 

坂倉準三の評価は、近年一層高まっていて、日経新聞でも「モダンの力、坂倉準三の建築」として、連続2回の特集が組まれていました。

坂倉準三(写真4):明治34年岐阜県羽島市生まれ(1901~1969)。東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。1929年渡仏し、建築を学び、近代建築の巨匠ル・コルビジェに師事。パリ万博日本館を設計し、建築部門グランプリを獲得して世界的デビューを果たした。1939年に帰国して坂倉建築事務所を設立し、戦後のわが国を代表するモダニズム建築を多く手がけた。代表作に、国際文化会館、新宿西広場、大阪府野外活動センター、羽島市役所などがある。

坂倉の設計した市庁舎には、羽島市庁舎(S34年)、呉市庁舎(S37 年)、枚岡市庁舎(S39年)上野市庁舎(S39年)があり、呉市と枚岡市の庁舎はすでに解体されている。現存する旧羽島市庁舎と旧上野市庁舎ですが、ともに解体か保存活用かの議論が今も続いています。

 

平成20 年(2008年)、伊賀市庁舎建設検討委員会が設置され、当初の計画案は、旧上野市庁舎を解体しその跡地に新庁舎を建てるであり、議決もされました。しかし、平成24年、保存と活用を掲げた岡本栄氏が市長選を制し、文化財として保存すべきとの建築関係団体などの提言もあり、保存活用派が優勢となった。その後、新庁舎は移転新築されて、残った旧庁舎をどうするかとの議論に移った。そこでも保存・活用を進める市側と解体して必要施設を新築とする市議会との対立が続いたが、平成31年3月、旧庁舎は伊賀市の指定有形文化財に指定され、保存・活用する方向に決したようであった。

 

私の旧上野市庁舎への印象ですが、学生の頃は、打ち放し式のコンクリート壁面は薄汚れて経年変化が趣に転嫁せず、湿度の高い日本の風土には適さないと感じていました。また、一階の市民サービスフロアーは、暗く感じた中二階を持ち熱効率も悪そうで、良いイメージは持てなかった。10年ほどして、市庁舎での初めての会議に出向けば、2階中央部分は、意外にも回廊形式の屋上庭園となっていて、ガラス越しに見るその光景に立ち止まる。これが設計者の神髄なのかと思い入りました。

一方、旧庁舎の雨漏りはひどく、廊下のバケツをよく目にしたが、これを保存・活用と言っても大丈夫かとも思った。雨漏りは手ごわい。新築の伊勢市立伊勢総合病院でも雨漏りが問題となっていた。

旧上野市庁舎は加えて耐震不足もあり、活用するには完璧な耐震工事が必要で、それも文化財建築としての工事であり、費用も高くつく。羽島市の旧庁舎の場合、「最低限度の耐震強度を保つためであっても約17億円の費用を要することとなり、この建築を作品としてとらえ、意匠に配慮した免振工法を採用した場合に約32億円から52億円を要する。」との会議記録があった。

平成29年の伊賀市の新庁舎移転新築後の旧庁舎の活用案には、交流型図書館やカフェレスト、物産販売、観光案内、美術展示ギャラリーなどを開設し、旧庁舎を活用した保存改修案が18億5000万円、解体・新築案が24億4000万で、リノベーションのほうが安価であると書かれてあった。本当か、それはないのでは。耐震費用をどれほどに見積もっているのかと、にわかには信じがたいものでした。

安くつくから保存活用するのではない、リノベーションのほうが高くつくだろうが、それを上回る価値があるから保存するのだ。その共通認識が必要だと思う。

令和2年の「旧上野市庁舎保存活用計画」には、経緯や文化的価値についての詳細な記述があるが、耐震改築費用や建築費の記載は無いし、令和3年までの旧上野市庁舎保存活用計画策定検討委員会の会議録や事項書にもその記載はなかった。意図的に載せていないのではとの疑念もわくが、どうなのだろ。

私は、今では旧上野市庁舎を修復保存し活用するのがよいとの思いでいます。場所も伊賀上野城の南麓にあって適しているし、坂倉の設計した4庁舎のうちすでに2庁舎が解体されていて残す価値がある。そして羽島市旧庁舎がどうなるかとても気になっています。

何年後かには、いずれリノベーションされた旧庁舎の姿が現れるでしょうが、どれ程の費用で、どのように耐震化されて、どんな新しさが加えられているだろうか。最新のリノベーション技術に期待している。でも、100年持つか、雨漏りはないか、と神経症のような不安が残ります。

 

旧上野市庁舎を過ぎて上野高校前に来ると、明治校舎は工事シートで覆われ、大規模な耐震改修工事中であった。壁黒板があり、私も授業を受けた上野高校明治校舎ですが、明治33年(1900年)竣工の木造洋風建築で122年も経っている。鉄筋コンクリートの旧上野市庁舎の2倍以上だ。同じ意匠で同時に建てられた二中(四日市)、四中(宇治山田)の校舎は戦災や火災で焼失し、現存するはこの三中(上野)の明治校舎だけです。

 

上野高校の次は、藤堂藩の藩校だった史跡崇広堂の前を通ります。高校生の時は上野市の図書館となっていて、セミの声やトンボが入って来て風情あり、なんとも心地良き所でありました。私にもあったささやかな青春の一コマ。googleフォトが選んでくれるベストショットのように思い出されます。

 

崇広堂を過ぎ、中学校も過ぎ、北に向きを変え、保育園へと向かう。行き交う車の中に、たまによく手入れされた旧車を見つけては、「いいなぁ」と思う。このE350 クーペもクラシックカーと呼べるまで美しく乗り続けたいものだ。まずは目指す20年20万キロ。建築物でも同じだが、高年式車も維持するには相当な経費が必要で、驚くほどの修理費用も生ずるだろうが躊躇なし、だ。あと10年。とは言え、いつまで保育園健診に行けることやら。

 

カーラジオはロシアのウクライナ侵攻八日目の戦況を伝えている。ハンドルを握る前方視界にバーミヤーンでのタリバンによる巨大石仏爆破の映像が浮かぶように現れた。平和であればこその文化財修復や耐震工事である。人命も文化財も自然災害からだけでなく、特異な集団やタガの外れた国家からも守らなくてはならない。

 

三田保育園はもうすぐ。入園前の健診予定は8名である。

 

 

参照:市指定有形文化財旧上野市庁舎保存活用計画(第1版)2020年1月

伊賀市教育委員会