言語生活2021==道険笑歩、土地鑑、足掻く==

 

道険笑歩:

 

今シーズン、インフルエンザ症例は一例もなかった。考えられないようなことが、実際に起こった。他のウイルス性の感染症も激減し、小児科外来の様相は一変した。すぐに診察も途切れるし、立ち上がっては、腕組みし、わけもなく檻の動物のように左右に行き来していた。窓の外を見やれば、駐車場には一台の黒いワゴン車が止まり、「道険笑歩」と書かれたプレートが張られていた。(写真1)

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道険笑歩?、聞いたことないぞ。そんな四字熟語があるのかと、急いでパソコンに向かい検索した。

それは、元ボクシングの世界チャンピオンの徳山昌守選手が作り用いた四字熟語とのことで、リングシューズには「道険笑歩」と刺繍されていたそうです。「アスリートならプレッシャーのかかった場面を数限りなく乗り越えなければならない。その状況を『笑って歩く』という余裕を持つことで、力を出し切りたいというひたむきな思いがこの言葉にはある」との解説もあった。運動クラブの中高生にも共感支持される言葉であるようです。

しばらくして、診察です、とカルテが運ばれてきた。慌てて画面を切り替えての診療再開となったが、なにか転調した気分で患者さんに向き合っていた。

 

 

土地鑑:

読売新聞朝刊を読んでいた。シニアの住み替え、との記事で、その中に「このあたりには土地鑑があるので安心・・」という一文。あれ、土地勘ではないのか。これまで何の疑いも、問題となることもなく、「土地勘」で過ぎてきた。土地鑑ではピンとこない。ウィキペディアを見てみた。

 

土地鑑とは、ある一定の範囲の地域における地形や地理、道路の構造、家屋・建物の配置、さらには生活習慣などについての知識が、直接の経験を通して身についていることを指す。元は警察用語。現在は「土地勘」の表記の方が一般的である。しばしば「土地勘」と表記されることがあるが、これは、ある「土地」についての「勘」がはたらく、あるいは「勘」がいい、といった連想からくる誤用であった。

現在は誤用が定着しているため読売新聞以外の新聞社、テレビ東京以外の放送局では「土地勘」ないし「土地カン」を採用している。

 

数年前、朝刊を朝日から読売に替えたが、朝日新聞のままなら気付かなかった事である。

 

 

足掻く:

テレビの前に座っても、you tubeを観ることが多くなった。先日、そのホーム画面に、『鬼滅の刃』の挿入歌「竈門炭治郎のうた」のサムネイル。漫画もテレビアニメも観ていないが、「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」が国内興行収入歴代1位を獲得したとの報道もあり、聴いてみた。メロディーはシンプルだけれども美しく、歌詞も、降りかかってきた過酷な運命に対峙し、立ち向かう作品テーマが表現されており、引き込まれて行った。これは名曲だと思った。                                                                        

 

字幕を追いながら聴いていたのだが、

「…我に課す 一択の 運命と 覚悟する 泥を舐め 足掻いても ・・・」、

あ、と一瞬目を留めた。「足掻く」、こう書くのかとこれまた初めて知った。これまでも、「あがく」は普通に使っていたが、この漢字に出会うことはなかった。漢字表記で意味が変わるものではないが、「足掻く」と書けば、苦しんで手足を振り動かし、じたばたする様子が確かにイメージしやすい。

 

You tubeにもよく字幕がつくが、これまでひらがなで書かれていた言葉が、この頃、漢字になっている事が多い。今日見ていた作品にも、睨む、茫然、愕然、咎める、などが用いられていた。その事は、漫画にも当てはまる。鬼滅の刃が話題となっていて、目にした解説などを読んでいると、登場人物や技名に難しい漢字が多い。竈門炭治郎のうたの竈も難しい漢字だ。難しい漢字の多用も、作品の独特のたたずまいを示す表現の一部のようで、作者の考えがあっての多用だと思われる。「鬼滅の刃」の難解漢字クイズ、というサイトもあった。

 

 

 

「でん粉」、「ばん回」、「は握」、「かっ色」など、漢語の一部を仮名書きにするいわゆる交ぜ書きであるが、私は、高校生のころから、なぜ「澱粉」「挽回」「把握」「褐色」と書かないのかと、不満に思っていた。当用漢字表にないからとはいえ、交ぜ書きはかえってわかりにくい。その他にも、安ど、こん身、さく裂、真し、清そ、せん光、破たん、ばん回、ぼっ発、などがあり、そのけったいな姿で新聞見出しにも用いられていた。

私の小学生から高校生はと言えば、昭和34年から昭和46年にあたる。昭和21年、「当用漢字表」が告示され、法令や公用文書、新聞・雑誌や一般社会で使用する漢字の範囲が示され、漢字数が制限されていた。当用漢字表にない漢字は、「別のことばにかえるか、または、かな書きにする」とされていた。漢字数を制限して、国民全体に教育を行き届かせようとの意図があったとの事だが、私は、この戦後の国語施策の元で、少年期・青年期を過ごしたのである。

昭和56年に、1850字の「当用漢字表」が、1945字の「常用漢字表」に代わり、漢字の「範囲」から「目安」となり、さらに最近の施策では、読める漢字を増やすために、教育段階で学んでいない漢字でも、交ぜ書きにせず、振り仮名を使うこと(H16文化審議会答申)になっている。また、謙遜、堆積、拉致、進捗、語彙、危惧、恣意、剥離、比喩、賄賂等の文字が常用漢字表に追加された。

このような国語施作の変更もあって、今日の漢字表記が増えた現状がある。交ぜ書きも少なくなり、今では入力すれば難しい漢字も自動変換され、使用制限も無いのだから、そのまま使われる。それらを目にしておれば、文章を書くとき、自動で示された難しい漢字もそのまま使ってしまう。そして時には、難しい漢字の多用に戸惑うことさえある。文章において大切な「平明」から離れることも好ましいことではあるまい。

 

 

 

小学4年生の孫娘は、先日、読売KODOMO新聞を持ってやって来た。週に1度届けてくれるという。タブロイド版で、なにより写真もイラストもカラフルだ。内容もニュース・時事問題に学習雑誌の要素も加わり、良く考えられている。見るところ、一般朝刊紙と同じ基準の漢字使用のようで、振り仮名が付けられている。これらに接しているからか、もうこんな漢字が読めるのかと驚くことがある。私が中学・高校生ころに読めた漢字だ。国語施作の影響は大きく、私の世代とは、漢字の受容は明らかに違う。                                                                         孫娘と妻は何かの話をして、妻は「それは別売(べつばい)で」、と言うと、孫はすかさず「それは別売り(べつうり)ではないの」、と返した。私はまた驚いて、少し嬉しくなった。凡例、続柄、重複、など妻と読み方が分かれ、ちょっとした議論にもなるが、今後、孫の参加もあるかもしれない。