育児のヒント一覧

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他県で暮らす若い夫婦も、夏休みには子どもを連れて帰ってくる。孫の姿を見るや、「これ何」と祖父母はびっくりし、こちらの病院でも診てもらったらと勧める。まずは素直に聞き入れて連れてくる。 四ヶ月の女児で第一子。手足の動きは活発だが、肋骨が見えるほどにやせている。生下時二千九百二十gもあったのに、まだ四千四百八十gしかない。母親も母乳が足りず,それが原因だと分かっている。「○式母乳保育」に共感し、実践している。母乳は多少とも出ており、命に別状はないが、栄養失調の状態でも、なおミルクを足すことなく母乳だけに固執している。母親の知能が低いからでも、経済的理由からでもない。知能は高い。父親は「そらみろ、おれの言った通りだる」と大声を出すわけでもなく、じっとやりとりを見つめている。同じ考えの同志なのかもしれない。

次の例は、十ヶ月の男児だが、顔一面が赤く腫れあがり、細菌の二次感染をも来たしひどい湿疹。よくもここまでに至らしめるとは。病院はステロイド軟こうを使うからと避け、「○水療法」に、遠くの施設まで熱心に通い、多額の費用もかけている。よくなればそれでよいのだが、この例では極度に悪化しており、「ステ□イド恐怖」の母親が必要な治療を阻んでいる。
近頃、このようなケースにしばしば出会う。その背景に、親、特に母親に漠然とした不安があるように思う。「母乳で抵抗力のある元気な子に育てたい」「恐ろしい薬害から守りたい」「親の私が今してあげなくては」という思いが、不安に増強されている。 そして的確な判断を欠き、 特定の情報に取り込まれ、 呪縛されてしまう。それは強固で、時間をかけた説明でもなかなか解けない。先のアトピー例も、名古屋へ帰った今も、変わらず水療法だけを続けているという。

母親のかぜ薬を処方する際、服用中の薬を問えば、抗不安薬を示す人が意外と多い。また睡眠薬おいていますかとよくたずねられる。こうしてストレスに耐えている大勢が、極端例の背後にいるのである。
経験する極端例は、核家族に多く、家族形態も関係している。同居にはそれゆえの日々のあつれきはあるけれど、子育ての点では、みんなが助けてくれるという安心感があり、母親の緊張もその分ないし、家族の意見も受け入れやすい。限度を超えたとき、「そんなことしていてはダメ」と強く、生活を共にする家族だからできる介入がある。そうして手遅れや極端が防がれている。核家族であれば、曰々のわずらわしさはないが、その分、外来で診ていても祖父母とは会話の中にも距離がある。若い母親なりに懸命に育てているのだし、「こんなことしていてはダメ」と介入できる距離にない。また同居でないのでその介入のタイミングもとりにくい。一度こちらの病院で診てもらったらと勧めるのが精一杯である。大家族が持つ一体感や帰属感は、カウンセリングや抗不安薬がなくても現代を生きていく上で、大きな役割を果たしていると思えてならない。核家族で暮らすにせよ、この点を意識していた方がよい。

「仕事は先進的に、生活は保守的に」この言葉、ふいにではあるが、しばしばうかぶこの頃である。

2001年8月

「どうしました?」「:::」応答がない。沈黙にも豊かな沈黙と貧しい沈黙とあるというが、きまずく貧しい沈黙のあと、やむなく母親が代わって答える。「いつから」「痛いところは」等々いずれの問いに対しても母親の通訳を介しての問診が続く。何とけったいな構図である事か。

小学校高学年から中学生にかけて、男女を問わずしばしばみられる。この年齢は、言葉数は少なくなるものだが、病院に来て、あいさつはともかくとしても、自身の症状を語ってもらわないと始まらない。
正常な一言語能力を持っているにもかかわらず、全生活場面あるいは一部の生活場面で沈黙し、それが数カ月から数年問持続するものを、緘黙(かんもく)症と言う。
学校へも行き、家での会話はなされているようだから、家族以外のコミニュケーションを自ら求めようとする意欲に乏しい、緘黙症の社会化意欲薄弱型といえる。これは、言語能力に対する劣等感が強く、自分をさらけ出すことなく身を守るために、沈黙するのだという。外来でみる語らない子どもたちは、他の能力は問題ないようだし、自分の言葉で伝えたいことを語り、わかってもらえたという実感の蓄積が足りないのではないか。

昨年九月の新聞地方版に、名張のある小学校で、夏休みの体験や自分の興味ある事柄を、一人づつみんなの前で発表し、聞いてもらう試みが報じられていた。新聞記事になったくらいだから一般化していないのだろう。
どの本であったか忘れたが、著者のアメリカ留学中の記述の中に、地元の小学校に通っている子どもが、朝、髪を整え、リボンを付けていつもにないおしゃれをしているので、どうしたんだと聞くと、今日プレゼンテーションがあり、服装についても担任から助一言があった事などが書かれていた。

高校、大学でも「ディベート」と呼ばれる討議を重ね、説得技術をみがくと間いているが、その基礎となるべき発表、提示技術も小学校より訓練されているわけだ。
このような環境で教育を受け、さらに選ばれて、カンター氏やヒルズさんなどの粘り強い交渉者が曰米通商協議などにやってくる。
中央教育審議会では、近頃、学校週五曰制の完全実施や、小学校での英語教育について検討されている。小学校より英語に親しむ機会をつくり、英語を学ぶことに異論はないが、プレゼンテーション能力を高めることにもっと重点を置くべきである。作文や習字の時間があるのだから、プレゼンテーションの時間があてもよい。
この点は、何も学校だけでなく、家庭でも意識して毎曰の育児にあたる必要がある。まず子どもに語らせて、親はじっくりと聞いてあげなくてはなりません。
これは以外にむずかしい。でも大切な事です。

来曰してまだ二~三年なのに、ほぼ日常会話を習得した曰系ブラジルの女の子。弟の診察にお母さんに付き添って身ぶりを交えて、懸命に通訳してくれる。意志、感情を伝えようとする意欲の強さを感じる。それはまばゆいばかりで、生き抜く力強さも表している。
できるものなら、これらを外来にくるもの言わぬ子ども達に注入し、生き返らせてあげたいものである。

1997.5.7

保育園保護者の会にお招き頂き、ありがとうございます。私は、伊賀市で小児科医院を開業しています。毎日、病気の子どもとその家族に接していて、いろいろ思うこと、感じることがあります。その一端をお話しし、子育ての参考になればと思います。

 

気になることと言えば、「何歳ですか」と問えば、「5」,「何年生ですか」と問えば、「3」、と省略し、「5歳です」、「3年生です」、とはっきり言う子供が少なくなりました。短縮、省略形はデジタル社会の適応の一面と言えなくもありませんが、やはり会話の基本形を身につけておく必要があります。

基本を身に付けた上で省略もありということで、そうでないと、場にふさわしい言葉を用いることができません。また、時々ですが、親をお前呼ばわりするなど、びっくりする言葉を吐く子供がいます。

さすがにその時は、そんな言い方をしてはいけませんと、看護婦ともども注意するのですが、言葉遣いには、幼児期より、日頃から注意していて、その都度正すことが大切です。

毎日診る子供たちの説明能力の弱さを心配しています。「どうしました」と尋ねても、自分の症状すらはっきりと言わない子が大勢いるのです。中・高生にもなって親の通訳を介しての問診という珍百景がそこにあります。これからの日本、大丈夫か、と思うほど心配になります。

 

価値観は、多様化してきています。患者さんには、この選択のほうが良いだろうと考え、確認のため聞いて見ると、驚いたことに、その逆を望んでいるということが少なくありません。時代も変わったと感じる瞬間です。

30年以上も前の研修医の頃ですが、治療判断を迫られ、迷った時には、自分の家族や親であればどうするかと考えなさいと指導医に教わりました。今では、医療者は予見を持たず、患者さんや家族の意見を聞いてその意向に沿うように努めなさいと研修医に話さなくてはなりません。

外来で見る子供の服装や髪型、装飾についても大きな変化があります。剃りこみ入りの奇抜な髪型や裾を踏みつけずり落ちそうなズボン、小学生のピアスも珍しくなく、高校生位になると鼻や口唇にも突き刺しています。著しい自由化です。これまでは、家族が、地域が、学校が許しませんでした。校則で規定していたものもありました。

 

高校の時の光景が忘れられません。クラスのAくんは、ぺたんこのカバンにステッカーを派手に貼ってあり、そのことで担任から叱られ、神妙に聞いていました。同じ価値観の中で生きていて、その逸脱を本人もわかっており、親のように注意してくれる担任の立場も受け入れていました。今では、中学生でも、先生にそんな事言われたくない、誰の迷惑もかけていない、自由だ、放っておいてくれと言い放つ事でしょう。そこまで言えば、先生方も引いてしまいます。

現在では、奇抜な服装や、痛々しいほどの装飾品も、自己表現の一つとして許容されてきています。一方、その見た目でステレオタイプの判断もされやすい。それ故に、言葉で、自分の考えや立場を主張して、解ってもらわないと、ただの変わり者で終わってしまいます。

 

個人情報保護条例が制定されてかなり経ちますが、その頃より、地域での子供や個人への関心とつながりが減ってきた様に思います。

名簿はもちろん、緊急連絡網も作れない状態です。知り合いの見舞いに行っても、受付では病室も教えてくれません。病室の入室氏名のプレートも番号のみで、まるで標本サンプルのようです。

私たちの時代は、高校・大学合格者は新聞地方版に「合格おめでとう」と、載りました。それはあたり前のことで、あそこの子供は、どこの大学に行っていると、地域の人は知っていました。知って欲しくないことまでも知られていた部分もありますが、それらを含めての親しみでありました。子供たちのちょっと気になる状況に接しても、一定の信頼と親しみが保たれていないと、注意することもためらわれます。下手に注意しようものなら、親に怒鳴り込まれることさえ起こりうるのです。

 

私たちの高度経済成長の時代は、そんなに深く考えなくても、大学に行き、あの人のような職業に就き、と、将来をおおよそに見通せる事ができました。今では、経済は低成長からさらには縮小へと向かい、終身雇用制も崩れ去ろうとしています。また、雇用の減少に加えて、国籍を問わないグローバルな採用となってきています。

今は、なかなか将来を見通せないし、世界を相手に大競争をしていかなくてはなりません。比較的将来が見通せた我々の時代でも中高生の時は漠然とした将来への不安があったのだから、今の中高生の不安は、相当なものだと思います。

不安といえば、今、子育て中の親自身が、強いストレスを受けていて、そのことの子育てへの影響も心配されます。抗不安薬を服用している親が意外と多く、この母親がと思える人までが、服用してびっくりします。

 

以上、見てきたように、価値観が多様化し、個人主義が一層強まり、世界が相手のストレスの多い社会の中で今の子供たちは育っています。

子供が一人で外国へ行き、そこで生き抜く状況をイメージして下さい。

今の日本の状況も、言ってみれば、昔に比べれば、外国にいるような状況とも言えなくもありません。自らが、言葉を発して、説明し、主張しないと、極端な話、無視されてしまいます。

周りの人が思い測って良いように取り計らってくれるということは期待できません。

自分の人となりを解ってもらえて、次に職業的な技量が問われるのです。

専門職としての技能や知識の習得はもちろん、それ以前に物おじしない表現力、説明能力を身につけておくことが第一です。この点は、親は意識して育てる必要があります。そんな戦略的な子育てが必要となってきているのです。

 

小児科受診も説明能力を身につけさせるよい機会です。

幼稚園児ぐらいになれば、家で受診の練習をして下さい。まずは、「こんにちは」と挨拶が言えて、そして、いつからどんな症状が出てきたかを言う練習です。

そして、実際の診察に臨んで下さい。帰りには車の中で、よく出来たことを褒めてあげて下さい。

日々の生活の中では、表現力を磨く訓練となる場面はいろいろあると思います。

親は先回りをせずに、子供に説明させて、その説明をちゃんと聞いてあげるという余裕ある態度が必要と思います。

そのような幼児期からの積み重ねが大切です。

 

歯列矯正を受けているお子さんが多くなりました。それは結構なことですが、私が思うに、子供の歯並びを心配すると同じ位には、必要な時にちゃんと話さないことにも心配して欲しい。歯科矯正にかける熱意と同等以上の熱意を表現・説明能力向上にも注いで欲しい。綺麗な歯並びで、言うべき事をちゃんと言えたら言うことありません。

土日は遠征に行かなくてはならないから、金曜日は学校を休ませて、遠征に備えます、と話す親子も少なくありません。習い事やクラブ活動が学校での授業より大切とする父兄は近頃、多く見られます。私達の時代は、学校が第一であり、そのようなことは考えられないことでした。個人や家族の考えが尊重される時代となりました。選択の幅が広がり、個人の才能を伸ばすという点ではよいことですが、そのマイナス点もあるはずです。それだけに親の判断が重要で、責任も重大です。

 

個人主義が強くなり、社会の価値観が多様化し、地域の人も先生方も、一歩引いた対応とならざるを得ません。ですから、以前にもまして、生き様を貫く、我が家の原理・倫理観、我が家の価値観が重要となってきています。それらを毎日の生活の中でちゃんと子供に向き合って、幼児期より伝えていかなくてはなりません。

拠って立つべき原理原則が確立していないと、これだけ多様化しストレスの多い社会の中にあっては、不安定で、時には社会を漂流することとなります。今、若者を捉えているものに、路上詩人や相田みつをのわかりやすい原則的な言葉や詩がありますが、現代の不安定な状況下で、若者は、そこに拠り所や指針を求めているようにも思えます。

 

最後に、子供にとっての家族・家庭の大切さです。外来でも、挫折し、逸脱する病める子供にもしばしば出会いますが、立ち直って行くためには、助けあう家族のいる安定した家庭が必要です。

ストレスの多い競争社会の中で、疲れ、傷ついた精神を癒し、そして気力を養うのも、助け合う家族のいる家庭です。家庭は戦いにおける基地ともいえます。皆様の家庭も、お子さんのためにも、どうか、安定した家庭であって下さい。

 

本日はご清聴ありがとうございました。

 

他県で暮らす若い夫婦も、夏休みには子どもを連れて帰ってくる。孫の姿を見るや、「これ何」と祖父母はびっくりし、こちらの病院でも診てもらったらと勧める。まずは素直に聞き入れて連れてくる。 四ヶ月の女児で第一子。手足の動きは活発だが、肋骨が見えるほどにやせている。生下時2920gもあったのに、まだ4480gしかない。母親も母乳が足りず,それが原因だと分かっている。「○式母乳保育」に共感し、実践している。母乳は多少とも出ており、命に別状はないが、栄養失調の状態でも、なおミルクを足すことなく母乳だけに固執している。母親の知能が低いからでも、経済的理由からでもない。知能は高い。父親は「そらみろ、おれの言った通りだる」と大声を出すわけでもなく、じっとやりとりを見つめている。同じ考えの同志なのかもしれない。

 

次の例は、十ヶ月の男児だが、顔一面が赤く腫れあがり、細菌の二次感染をも来たしひどい湿疹。よくもここまでに至らしめるとは。病院はステロイド軟こうを使うからと避け、「○水療法」に、遠くの施設まで熱心に通い、多額の費用もかけている。よくなればそれでよいのだが、この例では極度に悪化しており、「ステロイド恐怖」の母親が必要な治療を阻んでいる。

 

近頃、このようなケースにしばしば出会う。その背景に、親、特に母親に漠然とした不安があるように思う。「母乳で抵抗力のある元気な子に育てたい」「恐ろしい薬害から守りたい」「親の私が今してあげなくては」という思いが、不安に増強されている。 そして的確な判断を欠き、 特定の情報に取り込まれ、 呪縛されてしまう。それは強固で、時間をかけた説明でもなかなか解けない。先のアトピー例も、名古屋へ帰った今も、変わらず水療法だけを続けているという。

 

母親のかぜ薬を処方する際、服用中の薬を問えば、抗不安薬を示す人が意外と多い。また睡眠薬おいていますかとよくたずねられる。こうしてストレスに耐えている大勢が、極端例の背後にいるのである。

 

経験する極端例は、核家族に多く、家族形態も関係している。同居にはそれゆえの日々のあつれきはあるけれど、子育ての点では、みんなが助けてくれるという安心感があり、母親の緊張もその分ないし、家族の意見も受け入れやすい。限度を超えたとき、「そんなことしていてはダメ」と強く、生活を共にする家族だからできる介入がある。そうして手遅れや極端が防がれている。核家族であれば、曰々のわずらわしさはないが、その分、外来で診ていても祖父母とは会話の中にも距離がある。若い母親なりに懸命に育てているのだし、「こんなことしていてはダメ」と介入できる距離にない。また同居でないのでその介入のタイミングもとりにくい。一度こちらの病院で診てもらったらと勧めるのが精一杯である。大家族が持つ一体感や帰属感は、カウンセリングや抗不安薬がなくても現代を生きていく上で、大きな役割を果たしていると思えてならない。核家族で暮らすにせよ、この点を意識していた方がよい。「仕事は先進的に、生活は保守的に」この言葉、ふいにではあるが、しばしばうかぶこの頃である。

 

 

受け付けから次の患者さんのカルテが回ってくる。その氏名欄、新しい姓に書き変えられている。近頃よくあることで、わが国でも離婚の増加が報道されるが、まさにその通り。新たな名字で呼べば、「ハイ」と診察室へ入ってくるが、目が合い語りかけてくるものがある。無言で応答しそれには触れず、いつものように「今曰はどうしました」と診察を始める。主治医の私ですら、その姓、急にはなじめない。子供たち本人はどう受け止めているのか。その影響は年齢にも関係すると思われるが、実際のところは想像もつかない。親の離婚・再婚は、生活環境だけでなく、子供の人生観をも変えるかもしれない。

今も昔も、子供は家の事情や社会事変によりいろいろな境遇におかれる。運命と受け入れ、適応に努めざるを得ない。しかし、やはり耐えかねてさまざまな不調を訴える。

先日もよくおなかを痛がると、小学三年の女児が祖母に連れられ受診した。二歳のとき親が離婚し、母が家を出た。以後祖母が代わって育ててきた。昨年父が再婚し、新しい母と四歳の女児が家族に加わった。その後しばしば腹痛を訴え、母親のいないところでは以前のように表情よく元気であるという。祖母も環境が変わったからだと思うが、何かあればと連れてきた。祖母がこうして子供の訴えを聞き入れ、立場境遇をわかり対応してくれている限り、この子はこれからも大丈夫だと思う。

現在この地域ではまだ祖父母の協力が得やすく、離婚家庭であっても問題なく育っているケースが 多 い。しかし将来、 これらの協力も得にくくなれば、どうなるのかと心配である。

アメリカの有名なスポック博士の育児書には、高い離婚率を反映してか、親が離婚したときの子供への対応・注意事項が数ぺlジにわたり記述されている。わが国の松田道雄先生の育児百科にはその項目はないが、それを必要とする状況になりつつある。

ずっと以前に読んだ、鹿児島市立病院の武弘道先生の一文が忘れられない。アメリカ留学中に受け持った十二歳の白血病児が重体になったとき、別れた父と母は、それぞれ新しい妻と夫をつれ、合計四人で看病していた。四人が一緒いても別に気まずい様子もなく、みんな一生懸命看病していた。しかしその子供は憂うつな顔をして、もう看病もいらない、治療をしないでくれとさけんでいた」というものであった。兄弟や祖父母の看病ならまた患者の気持ちもちがったであろう。

過曰、福祉先進国オランダで、若者のホームレスが急増しているという衝撃的な記事を見た。その背景に親の離婚やギャンブル・アルコール中毒による家族崩壊と、一人世帯の増加があるという。家族形態は、核家族からさらに一人世帯へと進み、その分いかにももろい。二十年後、いや十年後かもしれないが、わが国の姿も暗示しているかと思えば気が重い。

イスラエルに有名なキブツという私有財産を否定し、共同生産の集団がある。これまで子供たちは同じ年代同士が集まって寝起きしていたが、最近の報道によると、親子同居が始まり、食事も家庭でとることが多くなったという。キブツにはずっと注目してきたが、この家族回帰ともいえる方向を知り、いくぶんほっとしている。

診察室ではきっちり受け答えができないのか、しないのか、小学校高学年になってもなかなか会話が成立しない。はきはき応答し、ちゃんとあいさつもできるのは、ごく少数のよくしつけられた子と、注目すべき点だが、武道を習っていたり、運動クラブに入っている子供に多い。時に奇抜な髪型や服装を伴うが、さしたる問題ではない。

 

朝、登校の子供達に出会っても、まつ先にあいさつしてくれるのは、野球チームの選手達である。このところあいさつや礼儀・会話において、各家庭でのしつけの差よりも、クラブやサークルに属しているかどうかの差が顕著となってきた。それは、水泳の時間、スイミングスクールに通っている子と、そうでない子が明らかに違うのに似ている。

 

今の子供達は、家族・親族の規模も小さくなり、人との関わりは少数特定化し、対人関係の幅も狭く、経験も少ない。したがって意識して小学生に、地域でのサークルやクラブ活動への参加を促す必要がありそうである。

 

ただ、問題となるのはその指導者の資質。クラブの現状に耐えられず、不調を訴える子らに接し、話を聞いていると、勝敗への過度のこだわりと、プロ選手育成・選抜だけが目的かと疑問に思えるものもある。身近に人を育てる有能な指導者を持つことは、その地域の何よりの財産。私達はそれにふさわしい待遇と評価を与えているだろうか。

 

やっと名前が呼ばれ、診察の番がきた。「何してんのそこへ置いとき、はよおいで」子どもが読んでいた絵本を元の本箱に戻そうとそているのに、制止するおばあさん。ちょっと待って、ほめてあげれば、保育所でしつけられた子の良き習慣も定着するであろうに。

 

幼い三兄弟が診察室に入ってきては 、ぼくが先、私が先と押し合い、椅子の取り合いとなる。一番小さな園児が順番と言う。「そう、カルテの順にしよう」と言うと納得して静かになる。この幼児も保育所で「順番」という事をしつけられ、身についている。

 

核家族化や幼児期よりの長時間保育を考えるとき、しつけの面でも保育所の役割は大きい。また保母さんは、子供だけでなく家族とも毎日接しており、家庭での子育てやしつけの相談を受け、アドバイスを行う適任者でもある。

 

ここでも注意すべきは、園での熱心な保育に保護者の過度な依存が生じることである。「家ではいやがり飲まないのですが、保育所では上手に飲ましてくれるんです」と、朝の薬から園にお願いしている。またアトピー児で、軟こう処置も園に頼っている例もある。善意や援助が依存をうみ、自立をさまたげる場合も時にある。

先日、保育園へ新入園児の検診に行った。暖かい陽射しの中、窓には外に向け、話題のポスターが貼られていた。SAMさんが息子を抱き上げたもので、「育児をしない男は父親と呼ばない」というコピーが添えられていた。

 

官庁の作ったものとは思えぬ出来ばえだが、今、行政に推進願いたいのは、保育園に保父さんと呼ぶのか、男性保育士を増やしてほしいことである。育児に父親の参加が必要なように、保育園にも保父さんを必要としている

 

見るところ体格のよい小学四年の男子だが、毎週月曜日になると「しんどい」と訴えて学校を休むという。診察上も検査にも異常はない。よく聞けば、土日のサッカーの練習が相当激しいらしい。本人もうまくなりたいし、レギュラーになろうと練習にはげむのだが、ついていけない。求道者の如くの悲壮感さえただよっている。

 

「先生、木曜・金曜と休んでいれば、土・曰の試合には出られますか」と真剣な父親の問いに、返答に窮する。親子ともども、何にもまして打ち込めるのは望ましい事だが、学校第一であった我々の世代からすれば、ためらいのないその割り切りに違和感がる。子どもも大成すれぱ、この父親あってこその一流選手という事になるのだろう。

 

一方、中学受験をめざす子どもたちもいる。学校が終われば塾へ行き、土・曰もない。これまた過酷をきわめ、ついに、幾人かは心身の不調を訴えて来院される事となる。

 

スポーツや受験、また音楽などの習い事にしろ、その開始は低年齢化し、一定のレベルに達するには激しい訓練とその継続を必要とする。最も基本的な部分において子ども本人が望み、納得の上なら相当な訓練にも耐えられるものである。しかしそれもおのずと限度がある。またそれが、親や周囲に説得され、おしきられた形の、いくぶんたりとも不本意なものであるならばいずれ破綻する。

 

「今日のスイミングは行けますか」と聞かれ、「下痢があるから休みなさい」と言うと、「ああよかった」と喜ぶ園児。そこにはまだ正直な気持ちを、ストレートに表現てきる余裕があるが、きびしい状況下の高学年にはそれがない。

 

あ~心のやすらぎ、ひと休み、ひと休み」と、コーヒーのコマーシャル。サラリーマンのみならず小中学生にも共感を得ている。本来やすらぎは意識せずとも家庭に、休日にといっぱいあったものだろうけれど、今は求めなくては得られないものとなった。

 

子どもなのに「疲れた」と訴え、いわば、レースの途中、不調を訴えてピットインする多くの子どもたちを見ていると、レースの過酷さ、スタジアムを包む常軌を逸した異常な空気に、このし1スそのものを疑問に思うこともある。

 

勝者は誇らしく、万雷の拍手をもってたたえられるべきだが、一歩、スタジアムの外には、また確かな別の世界がある。ここに身をおき生きるのもまた人生てある。

 

不調を訴える時こそ調整が必要なときである.だれしも迷いもあり、家族の助言を自分の決意に固めるにも時間ががかるであろう。親こそが余裕をもって見守ってほしい。また道草や、回り道にも得るものがある。幅広の価値観をもって支援してほしい。

 

今、世間では宗教についていくぶん騒々しく論じられている。外来も人の集まる所、世相を反映する。一歳六カ月検診の時、母子手帳を見るとワクチン欄まっ白の、全く受けていない子供が時にみられます。問えば「宗教上の理由です」と確信に満ちている。ここでワクチンの効用を説いても理解してもらえるはずもなく、「そうですか」と答えるしかない。

 

こんな事もあった。患者さんがまだ来られないと、紹介先病院よりの電話。もうとっくに着いているはずなのにおかしい。自宅に電話すると宗教上の理由で病院には行かないと言う。宗教上の理由で、という事はこれまでめったになかった。さしあたって子供の生命に危険はないわけて、親の判断が絶対であり、とまどうばかりてある。

 

少し前、バブルの頃は親の手首に金の鎖が目についたものだが、この頃、水晶や木の実のような数珠がひときわ多い。さらに新しい傾向だが、同じものを子供の手首にもはめている。一時、サッカー少年を中心にミサンガなるものを多く手にしていたが、それは子供たちの世界での流行の一つであった。最近のものはもっと宗教色が強い。

 

窓の外に目をやれば、見覚えのある母親が子供を連れて、近所を戸別にたずね、宗教パンフレットを郵便受けに入れている。意外な感じを受けたが、ありうる事だとすぐ納得した。 休診曰、洗車しているとこんにちわと二人づれの若い女性が声をかけてきた。「宗教にも興味があるのですね、待ち合いに本も置かれて。今度集会に参加して下さい。」待合に宗教書を置いた事もない、誤解だ。忘れ物の本として職員が立てておいただけなのに。

 

「先生どう考える…」といつも意見を求める南米出身のお母さんがいる。説明し「わかった、私もそう考える」と会話が終わる。南米やアジア諸国出身の在日外国人の方が予防接種に対しても概して積極的であり、子供に対する感情や医師との関係においても、より安心感をおぼえるのは不思議なくらいである。

 

話は変わるが、外来から歌が消えた。診察中子供の歌や、親子で口すさむ童謡が聞こえてくるのは普通であったが、近頃めっきり少なくなった。童謡コンサートが各地で大盛況との事だが、それは生活の場で童謡が消えた何よりの証かもしれない.現在の生活のテンポや気分は、童謡をロずさむ事とかけ離れている。病院においても環境音楽と称して一方的な音楽がかかり、一見ここちよいが、子供たちの内面を表出するロすさみを抑制していると言えなくもない。ロずさみのないのは精神発達上重視すべき徴候である。

 

いつのまにかエアコンも冷房から暖房に変わっている。いろいろな変化に気付くこの頃てある。

 

外来診察をしていても、その時代の流行や特徴が曰々感じられるものだが、ここ一年、変曲点とも言うこつべき質的な変化があった。なんと好ましいと思えるこの中学生が、学校を休むという。何かおかしい。これまでも心身症の子どもをたくさんみてきたが、いずれもやはりと思わせる、なにがしかの性格的特徴があった。

 

この好ましい生徒なら、我々の時代には、皆からある種尊敬され、本人も自信をもって学校生活を送っていたにちがいない。まじめな意見や議論が、ひやかしや笑いの対象になったりもしたが、それは一部、一時のものであり、大多数の常識の前には力をもちえなかった。

 

今、まじめな生き方や意見が孤立し、圧倒されてしまうほどの状況にあるのだろうか。大多数の常識がゆらいでいる。我々の世代なら、今、少しがまんすれば、将来豊かで快適な生活があると期待がもてたし、事実、段階的にせよある程度実感してゆくことができた。

 

現代の子どもたちはといえば、これから何年も受験戦争が続き、それをのりこえたとしても、将来行きつく社会は、産業の空洞化が進み、いつリストラの対象となるかもしれない。そして環境破壊も進み住みにくく、超高齢化の社会も確実に重くのしかかってくる。

 

さらに加えて、現代社会は多様な価値を包括しており、個人は多様な価値体系の構築も可能だが、反面、自己の体系を作りにくい時代でもある。しっかりした自己の価値体系を持たないものは漂流するしかない。そんな不安ももっている。

 

以上のような状況をだれもが肌で感じており、明るい未来は望むべきもない。自分たちの将来はどうなるのだろうと、いらだちがつのっている。そのいらだちは、ただごとではない。

 

外来でみる高校生の服装や装飾も、ここ一年、近年にない大きな変化があった。学校も方針を変えたのか、校則や指導そのものにむりがありついに耐えきれなくなったのか、|気に規制緩和がなされた感がある。

 

女子高校生のおしゃれや持ち物は、成人女性のようである。十年早い。そんなにあわてなくてもと思うが「将来どんな状況になるかもしれない、今できるのなら、今の若さを楽しんだり、使ったりしとかなくっちや」という、何か刹那的な割り切りを感じてしまう。

 

先日、五歳の男の子が、背すじを伸ばし、片手を挙げて「ハロー」と一言って入ってきた。その日本人ばなれした、様になっていること。外国人との曰常の接触があり、身についたものであろう。異文化も同じ地域でのくらしを通じ、柔軟な子どもから伝搬してゆく。

 

今曰わが国にはたくさんの曰系の中南米の人が生活しているが、外来で接していると、ラテン系の人の持つ生来の明るさが感じられ、このキャラクターこそが、わが国の人々に今もっとも必要としているものと思えてならない。

 

診察も終わり外気を求めて街にでる。いつもの書店に立ち寄れば「複雑系」「カオス(混沌)」こんな書籍が目についた。

 

1997.3.7.

 

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