もの言わぬ子どもたち

「どうしました?」「:::」応答がない。沈黙にも豊かな沈黙と貧しい沈黙とあるというが、きまずく貧しい沈黙のあと、やむなく母親が代わって答える。「いつから」「痛いところは」等々いずれの問いに対しても母親の通訳を介しての問診が続く。何とけったいな構図である事か。

小学校高学年から中学生にかけて、男女を問わずしばしばみられる。この年齢は、言葉数は少なくなるものだが、病院に来て、あいさつはともかくとしても、自身の症状を語ってもらわないと始まらない。
正常な一言語能力を持っているにもかかわらず、全生活場面あるいは一部の生活場面で沈黙し、それが数カ月から数年問持続するものを、緘黙(かんもく)症と言う。
学校へも行き、家での会話はなされているようだから、家族以外のコミニュケーションを自ら求めようとする意欲に乏しい、緘黙症の社会化意欲薄弱型といえる。これは、言語能力に対する劣等感が強く、自分をさらけ出すことなく身を守るために、沈黙するのだという。外来でみる語らない子どもたちは、他の能力は問題ないようだし、自分の言葉で伝えたいことを語り、わかってもらえたという実感の蓄積が足りないのではないか。

昨年九月の新聞地方版に、名張のある小学校で、夏休みの体験や自分の興味ある事柄を、一人づつみんなの前で発表し、聞いてもらう試みが報じられていた。新聞記事になったくらいだから一般化していないのだろう。
どの本であったか忘れたが、著者のアメリカ留学中の記述の中に、地元の小学校に通っている子どもが、朝、髪を整え、リボンを付けていつもにないおしゃれをしているので、どうしたんだと聞くと、今日プレゼンテーションがあり、服装についても担任から助一言があった事などが書かれていた。

高校、大学でも「ディベート」と呼ばれる討議を重ね、説得技術をみがくと間いているが、その基礎となるべき発表、提示技術も小学校より訓練されているわけだ。
このような環境で教育を受け、さらに選ばれて、カンター氏やヒルズさんなどの粘り強い交渉者が曰米通商協議などにやってくる。
中央教育審議会では、近頃、学校週五曰制の完全実施や、小学校での英語教育について検討されている。小学校より英語に親しむ機会をつくり、英語を学ぶことに異論はないが、プレゼンテーション能力を高めることにもっと重点を置くべきである。作文や習字の時間があるのだから、プレゼンテーションの時間があてもよい。
この点は、何も学校だけでなく、家庭でも意識して毎曰の育児にあたる必要がある。まず子どもに語らせて、親はじっくりと聞いてあげなくてはなりません。
これは以外にむずかしい。でも大切な事です。

来曰してまだ二~三年なのに、ほぼ日常会話を習得した曰系ブラジルの女の子。弟の診察にお母さんに付き添って身ぶりを交えて、懸命に通訳してくれる。意志、感情を伝えようとする意欲の強さを感じる。それはまばゆいばかりで、生き抜く力強さも表している。
できるものなら、これらを外来にくるもの言わぬ子ども達に注入し、生き返らせてあげたいものである。

1997.5.7

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