常識の揺らぎ

外来診察をしていても、その時代の流行や特徴が曰々感じられるものだが、ここ一年、変曲点とも言うこつべき質的な変化があった。なんと好ましいと思えるこの中学生が、学校を休むという。何かおかしい。これまでも心身症の子どもをたくさんみてきたが、いずれもやはりと思わせる、なにがしかの性格的特徴があった。

 

この好ましい生徒なら、我々の時代には、皆からある種尊敬され、本人も自信をもって学校生活を送っていたにちがいない。まじめな意見や議論が、ひやかしや笑いの対象になったりもしたが、それは一部、一時のものであり、大多数の常識の前には力をもちえなかった。

 

今、まじめな生き方や意見が孤立し、圧倒されてしまうほどの状況にあるのだろうか。大多数の常識がゆらいでいる。我々の世代なら、今、少しがまんすれば、将来豊かで快適な生活があると期待がもてたし、事実、段階的にせよある程度実感してゆくことができた。

 

現代の子どもたちはといえば、これから何年も受験戦争が続き、それをのりこえたとしても、将来行きつく社会は、産業の空洞化が進み、いつリストラの対象となるかもしれない。そして環境破壊も進み住みにくく、超高齢化の社会も確実に重くのしかかってくる。

 

さらに加えて、現代社会は多様な価値を包括しており、個人は多様な価値体系の構築も可能だが、反面、自己の体系を作りにくい時代でもある。しっかりした自己の価値体系を持たないものは漂流するしかない。そんな不安ももっている。

 

以上のような状況をだれもが肌で感じており、明るい未来は望むべきもない。自分たちの将来はどうなるのだろうと、いらだちがつのっている。そのいらだちは、ただごとではない。

 

外来でみる高校生の服装や装飾も、ここ一年、近年にない大きな変化があった。学校も方針を変えたのか、校則や指導そのものにむりがありついに耐えきれなくなったのか、|気に規制緩和がなされた感がある。

 

女子高校生のおしゃれや持ち物は、成人女性のようである。十年早い。そんなにあわてなくてもと思うが「将来どんな状況になるかもしれない、今できるのなら、今の若さを楽しんだり、使ったりしとかなくっちや」という、何か刹那的な割り切りを感じてしまう。

 

先日、五歳の男の子が、背すじを伸ばし、片手を挙げて「ハロー」と一言って入ってきた。その日本人ばなれした、様になっていること。外国人との曰常の接触があり、身についたものであろう。異文化も同じ地域でのくらしを通じ、柔軟な子どもから伝搬してゆく。

 

今曰わが国にはたくさんの曰系の中南米の人が生活しているが、外来で接していると、ラテン系の人の持つ生来の明るさが感じられ、このキャラクターこそが、わが国の人々に今もっとも必要としているものと思えてならない。

 

診察も終わり外気を求めて街にでる。いつもの書店に立ち寄れば「複雑系」「カオス(混沌)」こんな書籍が目についた。

 

1997.3.7.