幅広の価値観、道草のすすめ
見るところ体格のよい小学四年の男子だが、毎週月曜日になると「しんどい」と訴えて学校を休むという。診察上も検査にも異常はない。よく聞けば、土日のサッカーの練習が相当激しいらしい。本人もうまくなりたいし、レギュラーになろうと練習にはげむのだが、ついていけない。求道者の如くの悲壮感さえただよっている。
「先生、木曜・金曜と休んでいれば、土・曰の試合には出られますか」と真剣な父親の問いに、返答に窮する。親子ともども、何にもまして打ち込めるのは望ましい事だが、学校第一であった我々の世代からすれば、ためらいのないその割り切りに違和感がる。子どもも大成すれぱ、この父親あってこその一流選手という事になるのだろう。
一方、中学受験をめざす子どもたちもいる。学校が終われば塾へ行き、土・曰もない。これまた過酷をきわめ、ついに、幾人かは心身の不調を訴えて来院される事となる。
スポーツや受験、また音楽などの習い事にしろ、その開始は低年齢化し、一定のレベルに達するには激しい訓練とその継続を必要とする。最も基本的な部分において子ども本人が望み、納得の上なら相当な訓練にも耐えられるものである。しかしそれもおのずと限度がある。またそれが、親や周囲に説得され、おしきられた形の、いくぶんたりとも不本意なものであるならばいずれ破綻する。
「今日のスイミングは行けますか」と聞かれ、「下痢があるから休みなさい」と言うと、「ああよかった」と喜ぶ園児。そこにはまだ正直な気持ちを、ストレートに表現てきる余裕があるが、きびしい状況下の高学年にはそれがない。
あ~心のやすらぎ、ひと休み、ひと休み」と、コーヒーのコマーシャル。サラリーマンのみならず小中学生にも共感を得ている。本来やすらぎは意識せずとも家庭に、休日にといっぱいあったものだろうけれど、今は求めなくては得られないものとなった。
子どもなのに「疲れた」と訴え、いわば、レースの途中、不調を訴えてピットインする多くの子どもたちを見ていると、レースの過酷さ、スタジアムを包む常軌を逸した異常な空気に、このし1スそのものを疑問に思うこともある。
勝者は誇らしく、万雷の拍手をもってたたえられるべきだが、一歩、スタジアムの外には、また確かな別の世界がある。ここに身をおき生きるのもまた人生てある。
不調を訴える時こそ調整が必要なときである.だれしも迷いもあり、家族の助言を自分の決意に固めるにも時間ががかるであろう。親こそが余裕をもって見守ってほしい。また道草や、回り道にも得るものがある。幅広の価値観をもって支援してほしい。