百地砦と式部塚のこと

百地砦や式部塚のこと

快晴の秋の日曜日、伊賀市喰代の生家の門前で洗車をしていた。V6・3500のナチュナルフィールが心地よい、ジャストサイズのE350クーペである。黒色は初めてであるが、それにしても汚れがよく目立つ。洗車の回数は増えたが、運動にもなるしと、納得しての作業である。
リュックを担いだ青年が、バイクを下において、緩やかな坂道を登ってきた。私は、手を休め立ち止まっていると、「奥氏城跡は、どこか教えていただけますか」と、語りかけてきた。今、中世城館を探索する人も少なくなく、ちょっとしたブームのようである。
「そこの、竹やぶの所ですよ」と私は答えた。我が家の南で、畑・小川・田んぼの向こう100mほどにある丘陵である。そこは、奥殿屋敷と呼ばれていて、よく知っている。四方を土塁で盛られた、ほぼ正方形の屋敷跡が3つほど東から西に向かって、連なっているのがわかる。砦の南が急な崖となり、糠野川が流れており、堀の役割を果たしている。

伊賀には、鎌倉時代から戦国時代にかけての中世の城館跡が多く、563跡が確認されている。地侍や豪族の平城で、土塁や堀を持っている。今も子孫がその城館跡に暮らしている方もある。これほど多数の城館があったという事は、伊賀地方においては国をまとめるような強大な国主が存在せず、郷村ごとの惣主が独立統治し割拠していたのであろう。
豊臣秀吉の政権下、脇坂安治が伊賀守護として入り、城郭を破却せよとの命を受けた。本来ならば、土塁を壊し、堀を埋め無くてはならないが、建築物だけの破壊で済ましたために、今もこれだけ多く残っているのではないかと言われている。
戸数40足らずの喰代地区にも7つの城館があり、その中でも有名なのが、百地砦である。地区のほぼ中央部で街道を見下ろす丘陵に、左端に龍王山青雲寺が見え、丸型池の堤を挟んで右に永保寺と喰代分校跡がある。私もこの分校で小学校1年2年を学んだ。丘陵前の旧街道から池の堤の下の道を上り百地家そして我が家の菩提寺である青雲寺に着き、さらにその奥、一段小高くなった山手に百地砦がある。

百地砦は丘陵の尾根を利用して造られ、4つの郭が段々に形成されている。主郭は、丘陵を削って土塁とした広さ約70m×約40m。
砦手前の青雲寺も境内自体が城の外郭の一部となっており、そして丸型池を挟んで南西にある永保寺の辺りも出丸として機能しており、さらに城の南側には幅広い空堀があって、防備を固めた屈指の中世城郭となっている。
百地家の祖は百地丹波泰光と伝えられ、天文年間(1532~54)には既に北伊賀の喰代(ほうじろ)一帯を領していた。戦国期には、百地丹波は伊賀忍者の上忍3家の一つとして藤林長門守・服部半蔵保長に拮抗して、この地を拠点に勢力を張っていた。

城跡を南に抜けるとすぐのところに式部塚がある(写真1)。式部塚由来記があり、郷土史家の久保文雄氏は、以下のように口訳されている。
「百地家の先祖百地丹波泰光は奈良に都のあった時分から、伊賀国喰代村を領知し、春秋の二度は南都に勤番していた。それは延歴年中の頃である。丹波が奈良で召し使っていた女性に式部という者がいて丹波の寵愛を受けていた。或る秋のこと、丹波の勤番頃になっても一向伊賀から出向いてこないので、待ちこがれた式部は、はるばる伊賀まで訪ねてきた。一方、丹波もその頃、伊賀を出発して奈良に向かった為、二人は行き違いになった。式部が喰代に尋ねてきたところが、丹波の本妻はこれこそわが夫の奈良での愛人かと、胸騒ぎする嫉妬心をおさえて、何食わぬ顔で、よくよく尋ねてきてくれたものか、あいにく主人は奈良へ出向いた後で留守だが、今夜は一泊してゆけとすすめた。そうして本妻は,家来に命じて、一夜のうちに、落とし穴を掘らせておいた。翌日、本妻は式部に向かい、屋敷の方々を案内しようといって、例の落とし穴の辺に連れて行って、突き落として生き埋めにしてしまった。其後丹波は奈良より帰り、本妻に式部のことを尋ねたが、本妻はそうゆう女性は一向に知らないという。
ところが不思議なことに、どこからともなく、一匹の白犬があらわれ、丹波の着物の裾をくわえて引っ張るので、よく見ると式部が奈良で可愛がっていた白犬にまちがいない。これはと思い、犬の引っ張るままについてゆくと、彼の落とし穴のところにて、足でその辺の土を掘り返そうとするではないか。丹波は驚きながら犬の教える場所を掘り起こしてみると、哀れや、式部の生き埋めの死体があった。丹波は大変悲しみ憐れみに思ったが、これは本妻の仕業だから致し方ないと諦め、ねんごろに式部を弔い、その上に塚を築き樒(しきみ)の木を植えた。程なく丹波は嫡子の中務大輔に家を譲って発心して、高野山に登り生涯を終えたという。」
それで、式部塚は今でも樒(しきみ)塚とも呼ばれている。そして、いつの頃からか、式部塚にハサミを供えると夫や恋人の悪縁が切れるという、言い伝えができた。今も、人知れず悪縁を断ち切るためにお参りしている人がおり、使い古したようなハサミや剃刀が置かれてある。

式部物語は中世物語の一つとして、全国に流布しており、中世物語に特徴的な妬み嫉妬の話であり、そこに白犬伝説が介在することも特徴らしい。どのような経緯で式部塚伝承説話が喰代の百地家と結びついたかは不明だが、和泉式部説話は、京都誓願寺に出入りした念仏聖衆の好んだ説話で、念仏聖衆の布教と関係があるかも知れないとのことである。
なお、天正9年(1581年)、織田信長の伊賀侵攻の際、百地丹波はこの城を焼き払い、名張郡柏原村の柏原城に籠り、信長に抵抗したが、ついに柏原城の開城をもって、天正伊賀の乱は終わりを告げた。
話は変わるが、「百地」は、もともと「ももち」と読んでいたが、天正伊賀の乱の後、「血(ち)」という言葉を忌み嫌うようになり、「ももじ」に読み方を変えたと言い伝えられている。

 

百地砦の北側下方に、東の奥山から妹背川が西に流れている。私が通った友生小学校の校歌にも、「龍王の山 妹背川 永久にそばだちとこしえに 流れも清き この里の 我が学舎よ 榮あれや いざいざ励まん 諸共に」と歌われている。校歌を歌うたび、私は、妹背川とは、単純にイメージできない何かの物語性を漠然と感じていた。喰代から友生に流れるこの川が、妹背川と呼ばれた由来は聞いたこともないし、調べてもわからない。
本来、「いもせ(妹背)の川」は吉野川であり、そもそもは「妹背山」から派生した歌枕という。また、万葉集の詠み人知らずの歌に、「妹背川(いもせがわ)手に手を取りて 渡りなむ たとへ悪しき 深みは無くとも」とあり、妹背は夫婦のことで、「これから二人で 夫婦の川を 手に手を取って渡って行こう たとえ 意地悪な深みが無かったとしても」という若い二人の旅立ちの歌となっている。文楽の「壷坂霊験記」の中には「妹背川」が「女と男の間を隔てる川」の意味で出てくる。

式部伝説が百地家と結びついたように、この川も中世の物語と何らなの関わりを持つ状況があり、妹背川と呼ばれるようになったのであろうけれど、詳しく知りたいものだ。課題としよう。
私は、還暦も過ぎ、今頃やっと郷土の歴史に向かい合っている。

 写真1、式部塚

2014年12月

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