主治医からのありがとう

先曰、午後の診察も一息ついたころ、「ごぶさたしています。お変わりないですか」となつかしい電話。山口さんのおかあさんからで、山口さんは大阪で就職し結婚して子どもにも恵まれ、元気に暮らしているという。そのおちつきのある声に、やっとここまでこれたという親としての安堵と、これまでに導いてくれたすべてのものへの感謝が込められていた。

 

もう二十五年も前のことである。小学4年の女児が、右大腿が腫れ、紹介されて大学病院へ入院してきた。私が主治医となった。いくぶんやせ型の言葉数は少ないが、素直な少女であった。検査の結果、「・・・肉腫」というガンであった。面談室で両親に告げると、母親は「私が悪かった、ごめん」「足を切らないでほしい」と泣きくずれ、父親は「もうあぶないか」「ダメだ」と絶句した。絶望・後悔・怒り・悲嘆にくれたであろう数曰後、私を呼び止め、「がんばります。私がしっかりしなければ」「この子が生きていてよかったと思える曰が、少しでも長く続いてほしい」と話してくれた。本人もまた「足をここからちょん切って血がド□ド□出てすごく気持ち悪い夢を見た」と、治療が始まるまで極度に不安な曰 が続いた。

 

ガンが大腿部だけで転移がなければ、下肢切断が予定されていた。レントゲン検査で肋骨と左尺骨にも転移していたために、切断せず放射線照射と強力な化学療法の併用を決定した。抗癌剤治療は副作用も強く、激しい嘔吐を伴い、頭髪もまつげさえも抜け落ちる。本人もよく耐えた。長期入院はさまざまな問題に直面する。家に残された他の兄弟の行動や性格の変化なども表れた。遠方のために病院の近くにアパートを借り、土曜の外泊は兄弟も集まって家族のひとときをもった。家族も必死であった。約六ヶ月で退院することができた。 退院後もしばらくは、骨折の恐れがあり、松葉づえ使用で、歩行を禁止していた。母親が自転車で付き添い登校し、またピアノレッスンにも通い続けた。しかし5年生になると何が原因か無気力となり不登校となってしまった。それではいけないと6年生1学期からは養護学校へ転校し訪問教育を受けた。好きなピアノレッスンは途切れることはなかった。

 

ある日 転校前の担任教師が同級生を連れて家まで来てくれた。それを機に、皆と一緒の中学校へ行くと言い、地区の中学・高校へと進学した。そして音大へと進んだ。あのとき転移していなかったなら、当時の治療として、下肢切断がなされ、義足で の生活を余儀なくされ、今の仕事や家庭があったかどうかわからない。切らすに、転移していても治った。これこそが治療の進歩だが、治るだけでは不十分である。社会への不適応や成長障害 不妊など心配した。彼女のように学び、職につき、家庭を築き健康な子どももさずかってこそ、進歩が真に生かされたといえる。

 

「先生ほんとうにありがとうございました」との結びの声に、私もまた「ありがとう」と言った。

平成10年7月