言語生活2020:マウント、学習症など、

マウント:読売新聞、人生案内を読んでいた。精神科医の野村総一郎先生の回答文に、「最近、マウントという言葉をよく耳にしますが、これは偉そうな言動を振りまいて、相手より上だとアピールする態度のことです」とあった。マウントといえば、エンジンマウントや、スライドマウント、など思いつくが、そんなマウントって、使ったこともなく、注目した。

マウントをとる、とられる、との使いかたのようで、格闘技の「マウントポジション」が由来との事だ。仰向けの相手に馬乗りになった状態で、相手は身動きできず、一方的に攻撃できる優位なポジション。これが、言動を介した人間関係でも用いられるようになった。初めは、ネット掲示板で用いられ、次第にブログやTwitter、そしてリアルの人間関係でも用いられるようになったとの事です。新語、造語、流行語、いまや言葉の変化は、ネット環境を抜きには語れません。

先日、「職場の残念な人図鑑~やっかいなあのひとの行動には理由があった!」石川幹人著を書店で手に取り見ていたのだが、そこにマウント属という項目があった。

マウント属の【生態】:人が評価されている際に自分の自慢をし始め、自分がそれよりも上であることをさりげなく見せつけるような話し方をする人のたりないところを指摘し、評価をさげるように誘導することもしばしば。・・・

 

【生息地】:Facebook,会議室、休憩室、

【天敵】:マウント属、

 

よくわかる記載であった。

 

学習症;近頃、私もテレビよりyou tubeを観ることが多くなった。たまたま「精神科医 松崎朝樹の精神医学」という動画を観ていた。

発達障害のところで、学習症という単語。「あれ?」、学習障害ではないのか。

調べてみると、6年も前の記事が出てきた。日本精神神経学会は、5月28日(2014年)、「DSM-5病名・用語翻訳ガイドライン」を作成した。児童青年期の疾病などについて、「障害」を「症」へと変更し、「学習障害(LD)」は「学習症」、「言語障害」は「言語症」、「注意欠如多動障害(ADHD)」は「注意欠如多動症」となった。児童青年期の疾患では、病名に「障害」がつくと、児童や親に大きな衝撃を与えるため、「障害」を「症」に変えることになった、と記載されていた。

学習症、言語症には、素直には受け入れがたい違和感がる。それなら、睡眠障害は睡眠症、摂食障害は摂食症と将来変更されることにもなるのか。やはりある違和感。一方、注意欠如多動症は問題ない、むしろ注意欠如多動障害より望ましいとさえ思う。それはなぜか。直感的に思うだけだが、症の意味合いとして、「印、徴候、状態」の意味合いが強く、「異常、病気」(disorder)の意味合いが少ないがための違和感だと思う。注意欠如多動症は、「注意欠如多動の異常な状態(disorder)に症を付けてその状態を明示していて適切な表現となっている。同様に、統合失調症、自閉症、拒食症、過食症、これらは問題なく望ましい。例外はあるにせよ法則性を持たせてほしいものである。

語源や用語の法則性より差別意識や不快感を生まないことを優先した用語変更であるため、その言葉が持っていた「意味合いの濃淡、強弱」が乱れ、違和感を生んでいるのだと思う。認知障害ではなく、認知症とされた前例があり、今回は大きな反対や混乱なく学習障害から学習症に変更になったとも推測されます。

認知症がそうであるように、時間とともにだんだん慣れて、語の持つ意味の濃淡や強弱が新たな比率で定まり、違和感なく受け入れられていくのでありましょうか。

しかし、いつまでもこの事にこだわっていてもいけないとも思っている。こだわり続ければそれこそ神経症だ。

今、気付いたが、神経症というのは、学習症と同じ用法なのに、すでに一般化して、違和感がないのはなぜだろ。思うに、神経症は神経障害を神経症と学会主導で突然変更されたわけではなく、神経衰弱、神経過敏、等の言葉の統合的、進化的な意味合いを付与され用いられ、時間の経過もあって、違和感なく受け入れられたのだろうと推理するが、さてどうだろう。神経症の言葉の歴史を知りたいものである。

今回の学習障害から学習症へ変更は、日本精神神経学会によるも。平成16年に制定された発達障害者支援法には、学習症害が使用されている。学習症が広く使用され、法律用語も学習症へと変わる日が来るのか、混在のままであり続けるのか、気になる事だ。

英語においても学習障害には、教育的な立場でのLearning Disabilities(LD),医学的な立場でのLearning Disorders(DL)の2つの考え方があり、今は混在しているようです。

以上、医学用語の変更を、自分勝手に考えてきたが、言語学的にどうとらえ、本来どうあるべきか、言語学者のなるほどと思える論考を読みたいものである。

 

讃頌舎(うたのいえ);伊賀市ミュージアム青山讃頌舎が6月3日からの開館となりました。伊賀市で初めてとなる公立の美術館です。

水墨画において既に著名であった穐月明画伯は53歳となった1981年に青山町に移り住まわれ、画業に専念されました。85歳の2015年に、自身の作品と収集古美術を展示する私設美術館を建てて公開されたのです。画伯が亡くなられた後、伊賀市がそれらを譲り受け、伊賀市ミュージアム青山讃頌舎となったのです。建物も庭園も画家の美意識で造られた美しい空間で、地震除災の神様としても名高い大村神社と桜の美しい桜山公園に隣接した静かな森に囲まれたミュージアムです、と説明されています。

さて、ミュージアムの名称である青山讃頌舎をどう読むのだろうか、サンショウシャ、あるいはサンヨウシャ、と戸惑っていた。ホームページを見直してみると、青山讃頌舎(あおやまうたのいえ)との括弧書き、また、あおやまうたのいえ、と振り仮名のように付けられていました。直接電話をかけて尋ねてみました。

「はい、伊賀ミュージアムあおやまうたのいえ、です」と爽やかな応答。「讃頌舎」と書いて、「うたのいえ」と読む、との事でした。広報や新聞でも「讃頌舎」との漢字表記だけのことも多いが、その時、どう読むべきか、当て字のような「うたのいえ」と読まなくてはならないのかと、ストレスを感じます。

私設美術館ならともかく、伊賀市立のミュージアムなのだから、その名称は、分かりやすく読める名称であるべきだと思う。「あおやまうたのいえ」と呼ぶのであれば、「青山うたのいえ」、または、「あおやまうたのいえ」、との表記が望ましいのでは。美術館は小学生も来るでしょう。教育的観点からの配慮も必要かと思います。

今回、設立にあたって市議会でも討議されたであろうから議事録を検索してみた。讃頌

舎で検索すると、多数ヒットしたが、「うたのいえ」での検索結果は0。議事録には讃頌舎としか書かれてありません。実際なんと発音して議論されていたのでしょうか。後日お子さんを連れてこられた議員さんに尋ねたところ、「うたのいえ」と発していたという。議事録なのだから、実際に語られた発語を記録することが基本であるはずだ。表記に対する発音が通常では想起できない場合、議事録はどうあるべきか。最初に注記を入れるなど改善していただきたいものです。

讃頌舎と表記して、うたのいえ、と読む。

私には受け入れがたい違和感がありますが、外来で発想の飛びすぎた多くのキラキラネームを見るにつけ、世間一般では、それほど問題とするものでもなく、おおらかに受け入れられているのかもしれません。

それでも、私はこの違和感を時代の記録として留めておきたいと思うのです。