ベッドのそばの母に声

ベットの側の母の声

母親は、子どもに向かい絵本を読んであげている。ベッドのそばに椅子に腰掛け姿勢はやや低い。母の語りを聞いているマナちゃんのなんと表情の穏やかなことか。点滴をしている手をじっと動かさず、酸素マスクをそばに外したままで、喘ぎながらの呼吸状態にもかかわらず。私は診察用具を手にしたまま、しばらく立ち止まっていた。僅かな時間であったとしても痛みを忘れたこの心地よい子どもの気持ちを遮ってはならないとのためらいがあつた。すべての抗癌剤にも抵抗性となっている今、私に何ができるのか、という焦燥感もあった。私の2,3の問いかけにももはやわずかな表情だけの返答である。わたしは重点的な要領の良い診察に心がけた。
診察の後の「お母さん、本読んで」の一言に、母親はまたゆっくりとよく通る声で続きを読み始めた。

 

これまで、NちゃんやSちゃんにも同じような場面の経験がある。個室についてはテレビもあるが、状態が悪化してくるとテレビを嫌がっていた。一方的なテレビからの刺激には耐えられないのであろう。目の前のわが子の心情をも読み取っているのだろう、その語りにはいつもほほえみのような抑揚がある。そんな母の声に誘われて、たとえひと時であろうとも、子どもはどんな世界を巡っているのであろうか。また、自らの語りの中で信じられないくらいの平静が母親自身を包んでいるようでもある。これらは、母にしか出来ない、母と子であるからこそ作り出せた、母子を包むやすらぎだと思う。それはちょうど、新生児と母親の心音とに似ている。子宮内にあっても胎児には母親の心音が常に伝わっており、出生後も、母親の心音は新生児に安らぎを与える。新生児に母親の心音テープをきかせると泣き方も少なく、生後数日の体重増加も良かったという。また、母親はその利き手にかかわらず赤ん坊を左側に抱くことが多い。これは無意識であっても母親の心臓に近い方に抱くためだという。

こんな母の心音と新生児との関係は、子どもの成長に伴い、母の語り、母の肉声といったものに変化してくるのではなかろうか。生死をさまよっている時、母はそばにいるだけでは不十分で、心音が新生児に伝わったように母の声が子どもに伝わる必要があるのではないだろうか。

 

家族形態、社会構造の変化から、小児病棟も付き添いのない病院が増えてきている。そうなれば、親の面会があるとはいえ、入院生活における子どもへの親の語りは少なくなるし、また、病状悪化の連絡に母親が駆けつけ、子どものそばに付いたとしても、我が子ばかりか母親をも包み込んでしまうような静かな母の語りはなかなか生まれまい。
また、近年の臨床用各種モニターの発達もめざましく、デジタル表示と電子音で表され、各種警報も電子ブザーで知らされる。子どもたちは、高度なメカトロニクスの中、電子音に看取られて最期を迎える傾向にある。そんな現状を思う時、複雑な気持ちになる。
たとえひと時であったとしても、母の語りの中で平静を得た子どもその母親は、そのうちでもまだ幸せであったのでは無かろうか、
私は、モニターの音量を少し下げ、母の語りを背に聞きながら個室を出た。
1981年8月6日

次の記事

外来点描 2011年4月