喰代分校と永保寺

  なだらかな登り勾配の友生の街道を東へ進む。蓮池をこえて喰代(ほうじろ)の地に入ると、布引山地の山々を背にした高台がみえてくる。高台の新緑の木々の合間より、真新しい木はだの破風(屋根の側板)が目につく。新築なった永保寺の屋根で、寺院特有の曲面が美しい。

 高台北側に分校があったが、昭和五十八年に廃校となり今はない。その東隣りには、よくフナつりをした丸がた池があり、池の向こうは菩提寺である青雲寺、その裏手には伊賀流忍者の頭領百地三太夫の城跡があり、すぐ近くには伝説の式部塚がある。

 御倉橋を渡り、久米川の源流となる小川をこえて右に進むと高台下にくる。三十メートルほどの急な坂を上ると境内広場。すぐ左にあった太い根っこの松の老木はなく、逆上がりを練習した鉄棒もない。十一人が小学一年二年と学んだ校舎もない。跡地をみて、こんなにも小さかったのかと思う。

 永保寺は、当時すでに相当に老朽化していたが、ぶ厚い板の広い高縁が三方を囲み、そこをドンドン走り回っていた。また腰かけて写生する場所でもあった。

 床下に入れば乾いた細かな赤土に、蟻地獄のすりばち状の穴がたくさんあって、こんな所にこんなものがと目を近づけて注視した。

 授業中外を見れば、つえを持ち巡拝するお遍路さんの白い姿があった。その窓ガラスも、今なら不良品だが、ところどころが小楕円のレンズとなっており、その部分の景色だけが小さく逆さになっていた。

 永保寺は、喰代・高山・蓮池地区の祈願寺で、歴史は古い。正確には遠峯山永保寺といい、聖武天皇の創建で、もっと山奥の「とむねさん」と呼んでいる東峯山の山頂付近にあったという。一千二百年以上も昔の話てある。

 そして永保年間に、白河院の勅に依ってこの地に建てられたというが、天正伊賀の乱で燃失した。その後の再建だが、それからでも約四百年がたっている。

 旧本堂の大きな鬼瓦が、側に組まれて保存されている。上に三つ、中央に一つの菊の文様がある。上のものは十六弁であり、天皇との関係を示すのであろう。中央の菊は十七弁だが、それは何を示すのか、今もって知らない。

 永保寺で雨ごい祈願をしたと祖父母より聞いている。遠峯山頂の奥の院にある井戸は、どんな曰照りでも湧き水があり、干ばつの時その井戸をそうじして祈願した。井戸にへビなどの「長もの」がいれば、雨が近いといわれていたという。

 また本堂に安置されている大黒さんを少し前へ進めて祈願し、約一週間雨を待ち、また少し前へ進めては祈願して雨を待った。なかなか雨が降らず、大黒様が本堂入り□まで出てきた事もあったという。それでも恵の雨がなければ、奥山を流れる川の「大黒たんぽ」と呼ばれた深みに大黒様を投げ入れて、降雨を願ったそうである。

 今、このように新しくなった永保寺。郷土の歴史的文化財を維持してゆくのは大変な事である。地区の誰もが喰代分校を通じてなじんでおり、代々の生活に根ざした信仰があってこそである。この寺とともに地区の平穏なくらしがずっと続く事を願う。

 先曰近くを通れば、高台の中段に新しく携帯電話の中継鉄塔が立っていた。それはまさに寺院の塔の先端にある宝輪のように思えた。

平成12年5月7日

前の記事

牛が家族で会った頃

次の記事

フキ俵や菖蒲飾りのこと